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はじめまして。志月かなでと申します。
日本テレビ系ボンビーガールで”お祓い貧乏の怪談師”として紹介されました。
ゆとり世代の視点から、日々の活動は勿論、考え事、怪談などについて書いていきます。
(飼っている猫の名前はシシドです)
SNSはtwitterを愛用中です。

 

志月かなでの簡単な経歴

女優・怪談師。
北海道札幌市生まれのO型。
バスの運転手の父、バスガイドの母の間に生まれた長女です。
小さな頃から個性的な言動を繰り返していた模様……。
中学校の時からネットの荒波に揉まれ、14歳でオフ会初体験。
以降ネットにずぶずぶと身を浸しながら、大学で北海学園大学演劇研究会に所属。
並行して演技の養成所へ。まわりに流されてなんとなく就活したものの、
すぐに熱中してしまうタイプのため、没頭。
就職活動をはじめてすぐに某会社に内定をもらいましたが、インターンをして、辞退。
その後郵政の内定もいただきましたが、やはり演技がしたいと友人の家に転がり込むようにして上京。
2年声優養成所で勉強。その後怪談師としてデビューし、今に至ります。

アルバイト歴は多く、
学生時代からイベントMC(NHKのキャンペーンなど)、漫画喫茶、アパレル販売員、病院窓口、生命保険事務、SEの職場、ウエイトレス、皿洗い……。
「えっ、そんなこともやってたの」と言われるくらい、掘り出せばもっとあります。働くことは好きです。
特に好きだったアルバイトはやはり漫画喫茶のアルバイトです。

 

 

目標について

私は「表現すること」が、大好きです。
高校生のとき、島みやえい子さんに少しだけ歌を習ったことがあります。
そのときに、習いたてだった私は、歌の発表会で歌わずに司会をさせていただきました。
そこに、ゲストとして、シャンソンの歌手の方がいらしていました。

そこで聴いた『愛の讃歌』を今でも忘れることができません。
司会のくせに、はじまって数秒でぽたぽた涙を流して、
鼻水がどうにも止まらなくなって、ホールの外にこっそり出て、
そこで受付の人にティッシュをもらいました。
笑われながら鼻をかみ、その後も司会を続けたような気がします。
(歌が強烈なインパクト過ぎて、繋ぎの部分の記憶はぼんやりです)

そのあと、打ち上げの会場の焼肉屋さんでそのことを伝えたら
「あなたはとても感受性が豊かなのね。私がどれだけ発信しても、受け取るひとが心を開いていないと伝わらないわ」
とおっしゃっていました。

私はいつか彼女と仕事がしたいと思っています。
胸を張って彼女を呼べるような人間に、なりたいと思っています。

 

挑戦したいこと

表現であなたの印象につよく残りたいです。
網膜の裏に一瞬、やきついて、離れないような瞬間を生み出したいと思っています。
そのために、怪談も、お芝居も、続けていきます。
できるだけどんなお仕事でも挑戦させてください。

2016年には晴れてゲテモノ食いも経験したので、大切なのは勢いだと思っています。
(参考:AbemaTV まこみなの弾丸ギリギリツアー)

 

家族について

先に少し書きましたが、
父はバスの運転手、母はバスガイドです。
弟は晴れて薬剤師になり、病院勤務しています。
家の中で唯一わけのわからない仕事をしているのがわたしです。

母のお腹の中では、内側から暴れに暴れ、蹴りに蹴りまくっていたのですっかり男の子だと思われていました。
産まれてから女の子だったことが分かり、ひどく驚かれたそうで、いまだに言われます。
幼い頃に「お腹のなかにおちんちんもあったけど、残しておいてあげた」と言っていたそうで
もしかしたら男に生まれる運命だったのかもしれません。

生まれは13日の金曜日で、母方の祖母に「この子は生まれが最悪だから、人生は良いものになるよ」と言われたそうです。

産まれたら産まれたで、よく買い物メモに謎の言語を残す父の影響を先天的に受け
きりきりと仕事をこなす一生懸命な母の影響を後天的に受けて
部屋を片付けなかったり勉強をしなかったりすると母に叱られるということを、体現する形で弟に教えながら
ここまで大きくなりました。
今も部屋を片付けるのは苦手なので、物は極力増やさないようにしています。

 

学校について

高校では男子の過剰な「いじり」に耐えられず不登校を経験しました。
わたしは「いじめ」だったと思っていますが、世の中はデリケートなので、そのあたりは言及しません。
ただ、教室にいるのがつらくて、何度もトイレでお弁当を食べたことがあります。
みずいろの二段重ねのお弁当箱が、トイレの個室の中でにぶく影を落としていました。

クラス替えの時期、先生に呼び出されました。
「別のクラスに行きたいか」と問われました。
私は、そこで頷くのはズルだ、逃げだと思ったので、「運命に任せます」と言いました。(ずるくなればいいのにね)
二年生になって、仲の良い子同士のグループをまとめて移動をするかたちで「クラス替え」が行われました。
私は同じクラスのままでした。とてもショックだった。「そういうこと」なら、先に教えて欲しかった。
私は馬鹿正直に「クラス替えは運命」だと思っていました。その先生のことは今でも苦手です。
仲の良い子同士のグループにぶら下がるようにして所属していた私は、
クラスが変わったところで大して救われなかったのかもしれないけれど。

夏が近くなり、日に日に、学校に行こうとすると吐き気がひどくなるようになりました。
それでも学校に通っていました。ご近所さんから、「あの子は高校に行ってない」と言われたくなかったんですね。
それは「恥ずかしいこと」だと思ったし、幼いながら、自分の体調よりも、世間体を気にしていました。
修学旅行の時期になり、本当に行きたくなくて、夜が怖くて、睡眠薬が欲しいと思いました。
自分ひとりで乗ったことのないバスに乗り、初めて「精神科」に行きました。
親は承諾済みでしたが、急に言い出したことでもあり、仕事があって、ついて来られませんでした。
まだ高校生だったこともあり、親が一緒でなかったこともあり、具体的な診断は下りず、薬ももらえなかったです。

修学旅行の夜12時を過ぎてから、私の携帯電話に、ある男子から電話が掛かってきて、
同室の子を起こしてしまいました。
タチが悪かったのは、自分たちがいじっていた男子の携帯から掛けてきたことです。
電話に出たら、その向うで男の子たちの笑い声がしました。
ぷっつり糸が切れて、高校に行けなくなりました。がんばれなくなりました。
女子高の受験をしましたが、受かったんだったか落ちたんだったか忘れました。
ただ、出来上がっているコミュニティに途中から属そうとするのは、
私には無理だと悟ったんだと思います。受験の後、たしか、母とケンタッキーを食べました。

そして、通信制の高校に転校しました。そこは、全日制でした。様々な人がいました。
20歳を越えている子も、おじさんも、いじめられた子も、とがっている子も、たくさん。
ここでたぶん、多様性を学びました。人間はいろんな人がいる。それでいいんだとわかりました。
私立だったので、そこそこ高い入学金を払ったり、新しい制服を買うために、
お父さんがおばあちゃんに頭を下げてくれたというのは後で知りました。
両親とおばあちゃんには頭があがりません。

もともとやる気に満ち溢れていた私は、その高校で体育祭の実行委員というものを作り出し、実行委員長になりました。
20歳を越えていた男の子を誘って生徒会的なものをつくり、キャンパス長に屋上の解放をお願いしたりしました。
(屋上の解放は失敗しました。しかし、生徒会は今でも続いているようです)

そうやって少しずつ大人になり、大学へ行きました。
今でも、高校や大学の夢を見ます。大体、「出席日数が足りなくて卒業できない」夢です。
もしくは、「知らない学校に通う」夢です。
完璧なトラウマだろうと思いますが、普段は記憶の奥底ですよ。
あのとき、正直に「殺してやりたい」と思った人間はいまも生きているんだと思います。
もう関わることもないと信じたいけれど、あのとき「どうやったらボールペンで人間を殺せるんだろう」と考えた自分は、
今も胸の中に燻っていて、時々思い出して苦しくなります。
個性を個性だと認めてくれた転校先の高校の担任には今も感謝しています。

こういう経緯があって、心を病んだことのある人間が怪談を話しているって、それがもうある意味怪談ですよね。

幸いわたしには霊能力がないので、人を呪うこともせずに済んでいます。たぶん。

思い立った時に、適当に追記していきます。よかったら、たまに覗いてみてくださいね。

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