Essay

主に、眠れない夜に、気ままに書いたり、書き足したり、消したりするゆるい文章。
平成生まれの等身大。

ほとんど日記みたいな感じです。

2018/1/18

昨日は百鬼妖宴というイベントに参加させていただいた後
高円寺の火の鳥73というラーメン屋にふらっと入ったところ
「女性が入って来て良いにおいがするな」と言われました。なんだか、とてもいたたまれなかったです。
やはり女性の一人ラーメンはまだまだハードルが高いのでしょうか。
しかし、ここの醬油ラーメン750円は、大変美味しかったです。

怪談師として活動していて、
いわゆる20代の平成生まれ的な「インスタ映え」写真をアップすることもありますが
本質はとても根暗な女で、一人ラーメンもなんでも食べたければ行ってしまいます

今日は松任谷由実さんの『卒業写真』「悲しいことがあると ひらく革の表紙」
森田童子さんの『ぼくたちの失敗』「ストーブがわりの電熱器 赤く燃えていた」のあたりが脳内に流れて
とてもエモい気持ちになっていますが、こんな私が食べているのはフエラムネぶどう

卒業アルバムを開きたい時なんてないですし、なんなら手元にないです
大学の卒業アルバムは、個人写真すら撮影に行きませんでした。
(でも、お母さんは卒業アルバムを買って手元に置いてくれています。親不孝でごめんなさい。)
遠くで叱ってくれる甘酸っぱい「あなた」なんて私の人生にはきっといないのですが、なぜこんなにも胸が締め付けられるのでしょうか……。
学生時代にあまり良い思い出がない私ですら共感出来てしまう松任谷由実さんの歌詞、バンザイ。

2018/1/14

10日書かずに居られたのは、PCに向かう時間が少なかったからです。
(1月7日の夜行バスで名古屋に向かい、1月10日に帰ってきました。まだ4日しか経っていないとは……。)
案外読んで下さっている方が多くて、なんだか少々恥ずかしい気持ちになっていますが、
公開エバーノートらしくやっていきます。

今日、お風呂に入りながら考えていたことを書いておきます。
人との距離感が適切にとれないことが人生の悩みの一つでした。
(今も難しいなと思うことは多いです)
昔は特に加藤諦三さんのおっしゃるところの「母なるもの」を他者に求めていて、
自分を許容してほしい、壁を作らないでほしいと思うことが多くありました。
(特に顕著だったのは、高校~大学時代のインターネット上の同性の友人に対してです)
様々な職業に就いた友人がいますが、今も変わらずに居られるのはほんの一握りですね。

根底に闇を抱えている作品に惹かれてしまうのは、そういう部分を自分の中に持っているからだろうなと思います。
(ちなみに、最近のヒットは闇金ウシジマくんです。特にマサルの最後の表情と、ホームレスのお兄さんのipodのくだりはぐっときました。)

明日は某大学の研究室へ勉強に。明後日は某企業様の司会へ。明々後日はイベントのお仕事です。
いま、3年目と10か月。やらせていただけることがじわじわ増えていて、本当にありがたいと同時に、
勉強させていただける環境に感謝です。

2018/1/4

初詣、楽しかったです!来年もやりたいなと思いました。
去年まで、ちょっと気を遣い過ぎだった(しかもおかしな方向に)ので、
今年はちょっとやりたいように生きてみようと思っています。
まずは月末の研究会の会場を抑えねば。最近、エッセイどころか本当にエバーノート化していますね。

2018/1/3

amazon musicでフジファブリック『Suger!!』を聴いているなうです。
なんて元気づけられる曲なんだろう!!
名古屋に行ったら何をするかを引き続き考え中です。
有名になりたい=有名になれば、出来ることの範囲が広がる
という可能性に気付いたゆえです。
漫画家さんでも、音楽家さんでも、イベンターさんでも、編集者さんにも、
いい意味で『利用価値のある』と思ってもらえる存在になるべく、邁進いたします。

2018/1/2

新年あけましておめでとうございます!
今年もどうぞよろしくお願いします。
年末年始テレビを見ながら過ごしましたが、この世界にぐいぐい食い込むにはどうしたら良いだろうなと考えていて、集中できませんでした……。
有名になりたいというハングリー精神を忘れずに行きたいと思います。
今年はまず
・50キロ代前半をキープすること
・海外旅行に行くこと
・映画に3本以上出ること
・アニメを成功させること
・自分のブランディングをしっかりすること
・イベントに常に20人以上集客出来る状態にすること
・出版すること
・ゲームに出演すること
を目標にやっていこうと思います。
思いついたら追記しますね。
やれることとやりたいことと、やりたくないことと、やらなくてもよいことをしっかり考えていかなくてはと思います。
怪談だけじゃなく、朗読、芝居もしっかりね。
特にこの「やらなくてもよいこと」に時間を割きがちなので、この視点は忘れずに持っていたいなと思います。
1月は早々に名古屋に行く機会があるので、色々ゆっくり見て回れたらよいなと思っています(^^♪
名古屋に怪談を広めたい~!

2017/12/18

深夜にひとりでものを書くのが好きな学生だった。
最近はとくに眠れないことが多くて、気づけばいつも遅くまで起きている。
インターネットは便利で、こんな深夜にも、孤独であることを忘れさせてくれる。
チャットサイトでもTwitterでも、どこかにいけば「誰か」が起きている。
この感覚は、歩いて3分のコンビニに行けば店員さんが起きているという感覚とは違うものだ。誰か「自分の気持ちを共有してくれるかもしれない人が起きている」という可能性に安心するのだと思う。
私はもともと長い文章を書くのが苦手で、ブログはいつも書きかけては放置している。
Twitterだけが唯一続けられているツールだから、生来がせっかちなのだと思う。
今だってこの文章を放り投げて眠れるものなら眠ってしまいたい。なのになぜこんなに薄っぺらい文章を書き続けているかというと、眠れないからに他ならない。
いつか眠れないあなたがこれを読んで、毒にも薬にもならない孤独に触れて、それがネットの海を漂い続けるためのひとつの岩場に過ぎない文章だとしても、書くということを止めることができない。

――

何が恐怖なのかといつも考えている。人間が怖いと思う根源は何か。
私はとにかく、孤独が怖い。
小さいころ、なぜだか、母方の祖母や己の母が“死んでしまうのでは”と考えることが多々あった。
どうして女の親族ばかりだったのかはわからないけれど、私は加藤諦三が言うところの「母なるもの」に、守ってほしかったのかもしれない。28歳になってようやく、甘える先がなくなったらどうしようと、悲しくて涙が出るということはなくなった。
それでも、「一人ぽっちで生きていかなくてはならないのでは」と考えていると、発狂しそうになることはたまにある。目が覚めたとき、「このまま死んでいくのか」と強烈な不安にかられることもある。
平成生まれの私は、幸いなことに、中学のころには家族共用ながら、パソコンが与えられていた。大学に入って自分のノートパソコンを手に入れるまでは、家族の目のある茶の間で、型の古いパソコンしか使えなかったけれど、それでも充分ありがたかった。
大学に入ったころに、経営学部には必須だったノートパソコンを奨学金の20万円から買った。そこからはウハウハだった。mixiと出会って、わたしは夜な夜な一人で詩やエッセイや、ちょうどこんな感じの、特別誰に見せるでもない、少しセンチメンタルな内容を書いていた。当時の私の “深夜”は26時ころのことで、今のわたしはそれより2時間遅い28時にこれを書いている。(もう29時になる)
おそらく、生まれつき夜型なのだろう。夜のほうが文章をタイプする指は動きやすい。昼に生まれたのにね。
これからどうやって生きていこうとか、考えることは今ももちろんある。こんな夜にはなおさらだ。
いくつもいくつも並行して問題を処理しようとするせっかちな頭は、ひとつのことを丁寧にやり遂げるということがなかなかできない。職人には向いていないのだと心底思う。

――

話は変わるが、中学生のころ、ふみコミュニティ(通称:ふみコミュ)というコミュニティサイトによく投稿していた。その前は、PKC(ペガサスキッズクラブ)というコミュニティサイトにもよく投稿していた。
中学生の多感な時期に、ああいった、同年代の子が集まるコミュニティサイトと出会ったことは救いだった。
わたしは当時から可愛くない性格をしていたし、趣味や思想の合う友達が少なかった。
親友はいたけれど、ほかの子たちに合わせてなにかをするということがとても苦手だったので、いつも浮いていたと思う。(それでも見捨てずにいつもそばにいてくれた親友のことが今でも大好きだし、感謝している。)
早く大人になりたいとは思わなかったけれど、某少年漫画の夢小説なんかを読みながら(お恥ずかしながら、そういう時期もあった。)、ネットの世界には文章の上手な人がたくさんいるなあと感じていた。
詩なら書けるなと思って、よく詩を書いては投稿していた。(夢小説はいざ書くとなると自分に都合がよくなりすぎるので、もっぱら読む専門だった。)
公立の商業高校に進み、推薦で私立に入った親友とは別れてしまった。友達もいなかったし特にやることもなかったので、くさるほど本を読んだ。
中でも高校時代に出会って衝撃を受けたのは、有川浩さんの小説だった。有川さんの小説の中で、一番最初に「海の底」を読んだ。新刊の棚に面珍してあった、おそらくまだ誰も借りていない、透明のカバーのかけられた海の底から水面を見上げるような写真の装丁。明朝体をもうちょっとお洒落にしたような字体で、うつくしくシンプルに「海の底」とタイトルが添えてある、そこそこの重さを伴った分厚い本だった。
当時の私は文庫本を読むという発想がなく、いつも新刊を誰よりも早く借りて読んでいた。誰よりも早く借りることがステータスのような気がしていた。この辺は、耳をすませばの登場人物にもちょっと似ているかもしれない?彼女らと違うのは、明確に気づいてほしい相手がいたわけじゃないことくらいだろうか。

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本といえば、一度だけ担任に褒められたことがある。一か月に100冊本を借りたときだ。学校内で五番目くらいになったらしい。その時、この担任はアホなのかなと思った。それで全部中身を読んでいると信じているのかなと。
実際、装丁やら新しい本のにおいに惹かれて貸し出しカウンターに持っていき、わざわざ家に持って帰っても、ぱらっと読んで合わないと思った本に向き合うほどの忍耐力は、当時の私にはなかった。今でさえTwitterしか続かない女だ、面白いと思えなかったらすぐにあきらめる節がある。商業高校で通常の「歴史」やらの授業が半分になっていたせいか、歴史小説に手が伸びたことは一度もなかった。もっぱら江國香織さんや山田詠美さんなど女性作家の、しかもアンソロジーを読んだ。バスに乗っている間にキリのよいところまで読めるのがうれしかった。
勉強はそこそこできた、というか、した。弟のほうが出来がよいのはわかっていたので、弟が自分の望む大学に進学できるように、自分は高校を出て働こうと思っていた。そのころ、特に何になりたいという考えは持っていなかった。高校を卒業したら働いて、家にお金を入れよう。弟が進学できるようにしよう。親に負担をかけないようにしよう。結局私はいい子ちゃんだったのだ。教室内に居場所もなく、トイレでお弁当を食べていた私は、もう自分に価値を見出すことができていなかった。今思うと悲しいことだ。

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修学旅行の夜に突然電話がかかってきたことをきっかけに、がんばって学校に行くのをやめた。修学旅行の新聞を作らなくちゃ、係だから行かなくちゃ、迷惑をかけないように行かなくちゃ、と思いながらも、精神が限界だった。身体が重たくて動かなかった。その時親に何て言ったかはわからない。泣いたのか閉じこもったのかも覚えていない。
そこから一か月、たった一か月で私は転校した。12月には新しい高校に通っていた。あとで知った話だけれど、父親が父方の祖母に頭を下げに行ったという。私立高校の入学金や制服やらで100万円借りたというのを聞いた。その100万円は返すものなのか、もう返しているのか、わからない。そもそもその100万円借りたという話すら、母親からぼんやり聞いたような気がするだけだ。
迷惑をかけたと今でも思う。開き直って「しかたないじゃん」といえるような人間だったら、今こうして文章になどしたためていないだろう。自己肯定できないがエネルギーだけはあまりまくっていた私は、転校して、様々な事情を持った生徒や、それらに真摯に向き合ってくれる担任の先生の間で、残りの1年と少しの高校生活を過ごした。1年と少しだけど、向き合ってくれた担任の先生には本当に感謝している。高校を卒業して遊びに行ったら、自販機でジュースをおごってくれたことも覚えている。いい先生だった。

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私は個性が強かったというより、クセが強い人間なので、担任の先生には恵まれたり恵まれなかったりした。小学校最初の二年の先生はとてもきらいだった。三年生の先生はとてもすきで、国語の授業の時間に書いた詩をこっそり北海道新聞に送ってくれた。私の書いた詩が北海道新聞に載ったということを教えてもらったとき、心の中がかっとあつくなったことを覚えている。うれしかった。とても。文章を書くことが大好きになった。四年生の先生も好きだった。五年生、六年生の先生はとても嫌いだった。中学校一年生の先生は好きか嫌いかといえば嫌いだけど、いろいろと勉強にはなった。二年生の先生は好きだった。放送部をしていた私の放送を聞いて「かなでが一番うまい」と言ってくれた。声をいかした仕事につこうと思って、卒業文集には「アナウンサー・ナレーター・声優のどれかになる」と書いた。今振り返ると、近しいラインにはいると思うし、褒めてくれた先生には感謝しなくてはならないと思う。三年生の先生は嫌いだったな。高校最初の二年間の先生は大嫌い。転校後の先生は大好き。こういう感じだったので、各々先生もさぞ苦労されたことだろうと思う。その辺の記憶はまた機会があれば掘っていこうと思う。
なんにせよ、ここまで28年と2か月を生きてきた。あと30年もすれば還暦も近くなる。最近は信心が足りていないように思うので、明日は神社に行こう、とか、そういうことを考えている29時20分。
キンクマハムスターのきんたは元気に滑車を回している。