まどろみ

聡子という女がいる。あなたが街ですれ違っても気に留めることはないくらいに、ありきたりでどこにでもいそうな女だ。早朝六時半。ねむりはじめたばかりの微睡の中で、まぶたを薄く開けると、聡子がきっちりと髪を結い上げて出勤していくのが見える。
先に断っておくが、私と彼女は恋人ではない。
こうやって朝の時間を共有しているのが男でないことは、私にとって唯一の例外だ。
支度の終わった彼女が振り向く気配を感じて、とろりとしていたまなこに帳を降ろす。

「優衣、……ねえ?もう寝たの?」

振り向いた彼女が尋ねても、私はやすらかな寝息を返すのみ。
聡子がため息をつく。

「行ってきます」

大学時代から変わらない1Kの部屋には彼女の匂いが染みついていた。築28年、ギリギリ昭和生まれのマンションは、誰か出ていくたびに部屋全体の空気がきゅっと閉じ込められ、ドアごと軋んでびゅおんと風が鳴く。
玄関のドアに錠が落とされ、彼女のヒールが階段を降りていく。
私は合鍵を持っていない。オートロックの解除方法と、こういった時のために一時的に鍵が放り込まれるポストの番号を知っているだけだ。

「鍵、預けていけばいいのに」

優衣が聡子の背中にかけるまでもなく、言葉はキッチンに続くドアの手前に落ちた。

男にはさまざまな「かたち」がある。それは手に取ることが出来るし、口に含むことも出来る。けれど女の「かたち」は目に見えない。
私はいつからかそう言った類の秘密めいたものを、彼女に対して感じている。
男の腕は無骨だ。しなやかに首筋に沿うように思えても、不必要になった瞬間、今までの感覚がうそのように合わなくなる。
彼女の腕はどうだろう。あの、弓を引いていた白い腕は。

うすみどりのシーツと、揃いのカバーのかけられた布団の間に身体を滑り込ませるのがすきだ。身長差10センチ分、彼女の足が届かないのであろう部分だけが、こころなしかまだひんやりと感じられて、それがなおさら私を気持ち良くさせた。
あまくやわらかい彼女のにおい。
私に絡みついた男の匂い――かつて聡子は煙草や酒の匂いについてそう表現した――を枕に擦りつけるようにして眠ると、まるで彼女を犯しているような気持ちにさえなる。
きっと彼女は知らない。知りうるわけもない。
けれど、ほんの些細な、欲情にも満たないゆるやかな情動は確かに私の中にあったのだ。

「行くとこないならウチ泊まる?」

ほんの数時間前の出来事。声を掛けて来た広川という男とは初めて会った。ダークグレーのピンストライプのスーツに身を纏った彼は企業経営者などと言っていたけれど、その実、税務署に申請して2年そこらの個人事業主と言ったところだろう。
下心含みの男の声が鼓膜に絡みついている。日に焼けた笑顔の下は他の雄と大差ない獣だと知っていながら、私は頷いた。

「いいよ」

始まりやきっかけはいつもほんの些細なこと。例えば飲み会の帰り道で「たまたま」一緒になる。その裏側にある男のたくらみに気づかないふりをするのが、そろそろつらくなってくる歳だ。二十代後半になってまで女子高生みたいにドラマを求めたりする必要はないが、あけすけに白けた顔をするのはマナー違反だろう。
使えるものがあるなら使うだけ。とても前向きな、生き物としての快楽に身を浸すだけだ。

「西藤さんって、きれいだよね」

男の腕に抱かれているときには、いつもまぶたの裏に白昼夢を見ている。聡子とは高校の弓道部で知り合った。彼女はまだ転校して来たばかりでこちらの制服がなく、ブレザーの群れの中でただひとりセーラー服を着た聡子が、弓道場傍の石段に腰掛けて呟いた声。
とっくに彼女には呼ばれなくなってしまった自分の苗字が、特別な響きをしたオルゴールの小箱のように再生される。あの時はそんな風には思わなかったくせに。
私は記憶を再生するようにねじをまわす。

「フォームが?」
「ううん。……なんていうか、たたずまい?」
「へんなの。そんなこと言ったら、あなたのほうがよっぽどきれい」

女子高からの転校生だった聡子は、当時から今に至るまで彼氏らしい存在と長く続いたことはないらしく、私にはそれが珍しく映っていた。肩より少しだけ長い黒い髪。夏の陽ざしの許に投げ出された白いふくらはぎ。ひやけどめの匂い。

「私はあなたみたいに言いたいこと言えないから。一番楽なルートで生きてるだけ」
「楽って?」
「期待しないこと」

その一言が、私の心を打ちぬいたのだ。

「気持ち良かった?」

裸の男が問いかける声で現実に引き戻される。いつもいつの間にか終わっていて、夢の続きを見ることは出来ず、急速に現実に引き戻される。饐えた白濁のにおい。見慣れない天井。安物の香水くさいグレーのシーツの上。
吐きそうだった。

「ふつう」

なんて言ったら殴られると思ったから、今度は私が雌の笑顔を浮かべてやり過ごす。男が眠りに落ちたのを横目で見ながらブラウスのボタンを留めて、ショートパンツを履いた。

「あほか」

短く声を漏らして、うすみどりの掛け布団を頭まで引き上げた。彼女の匂いに包まれて妄想めいたものを繰り広げるのはとてもやらしくて気持ちが良いはずなのに、時折私の身体に染みついた匂いが邪魔をする。上質な画用紙を指先で撫でていたら、見知らぬ子どもが端からクレヨンを滑らせていくかのようだ。
聡子は今頃、満員電車に揺られているんだろうか。私も仕上げなくてはいけない仕事がもう一つある。今日も聡子が帰ってくる前にはここを後にするんだろう。